わたしは「ブログの収益化」への考えをいったん手放すことにした。

お久しぶりです。カイノオトと申します。

表題の通りです。しばらくぶりの更新になってしまったのですが、これから、この考えに到るまでの諸々について、散文を記していきます。
お時間ある方は、お付き合いくださると幸いです。

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この頃、筆を折っていたというか、何かモノを書いたりモノを生み出したりするだけの余裕が自分の生活の中になくて、その結果いろいろな自分のコンテンツの更新が滞っていた。ツイッターも、自分しかこんな数字見ていないと思いながら99ツイートで更新を止めていた。ゆるい感覚のまま3桁に乗ったら、なんとなくタカが外れてしまうような、そんなよくわからない危機感のようなものを募らせていた。(そして、このブログを書いてツイートすることで、100ツイート目をスッパリと迎えてしまおうとも思い立った。)

自分はそこまで素性を明かしていないが、今言えることは、この活動は仕事でやっているわけではなく、(これは良くも悪くも)今の所完全に趣味の域だということだ。
趣味で、音楽活動と執筆活動(このブログ+note)をやっている。

いろいろな発信を止めている中で、いろいろなことを考えた。


これから自分はどう生きていくのか?

この活動はまだ趣味の域だが、いつかこれを基にご飯を食うことができるだろうか?

自分の活動に広告や収益を考えることは、自分の創作活動の妨げになってやしないか?

と。



考える中で、本も読んだ。何冊も読んだ。つい最近は偶々哲学に興味が出て、昔の哲学者についてもいくらか知識を蓄えていた。


その中で、セネカという人物、哲学者の存在を知った。
セネカについては、この動画を見ていただくと理解が深まって面白いと思う。

(ぜひ見ていただきたいのだが、一応この動画を見なくてもわかるように記していこうと思う。)



すごくざっくりと話すと、セネカは、古代ローマの政治家であり、ストア派の哲学者だ。

セネカは優秀な人物だったが、政治に携わることが多かったゆえに、好きな哲学に没頭することを許されない日々を送っていた。晩年、齢50を越えて幾ばくかの時を経てようやく、自分の時間を持つことができたそうだ。

この「人生の短さについて」という本は、そのセネカが、忙しい日々を送っている穀物管理責任者の「パウリヌス」に向けて書いた手紙という形式で進んでいく。
「人生は短い。」「人は、自分には時間が無限にあると勘違いしている。」「自分のために時間を使ってはどうだ。」「さあ、歩き出そう。あなたにあたたかい血が通っているうちに。」セネカはそう、背中を押してくれる。


わたしは、この動画を見て、
セネカという「知」を愛した人物を知った。
セネカという哲学者を通じて、時間の大切さを学んだ。
そして、セネカの生き様に、心を動かされた。



セネカの最期は理不尽に訪れた。
弟子や友人に囲まれて過ごしているときに、兵隊たちが押し寄せてきて、無実の罪—皇帝暗殺を企てた罪—を着せられて自害を命じられたのだ。
その皇帝は、かつてセネカが教育した相手だったのだが、それでもセネカは動じなかった。
セネカはきっと、死を覚悟できるほど哲学を愛し、今を生きていたのだ。


仲間たちに遺言を残すことさえ許されないセネカは、悠然とこう言った。

「きみたちに感謝の言葉を残したかったのだが、どうやら時間がきてしまったようだ。」
「ならば、今わたしが持っているものの中でもっとも美しいものをきみたちに遺していく。」
「それは今、わたしがこうして生きているという姿だ。」
「きみたち、何泣いているんだ。気をしっかり保て。共に学んできた哲学の教えはどこへ行ったんだ。」

そうして、セネカは自害する。
その生き様を象徴するように、積極的に自らを殺めていく。
死を恐れずに。



わたしは震えた。

傲慢かもしれないが、このセネカのように生きたいと、思ったのだ。



他にも、ソクラテスなど様々な哲学者について少しずつ知見を広めていったのだが、その哲人たちに共通していることがあるように感じられた。

それは

・死を恐れていないこと
(時間は有限であることを知っていて、いずれ死ぬということを知っているからこそ今を悔いなく生きているということ)

・知を愛していること

・自分の生き方を貫き通していること

だと思った。


そして、今の自分をふりかえった。

その結果、この記事を書いて、いったんけじめを付けることにした。

昨日の自分に、今日の自分にさえも。


収益化を望むということは、それだけ制約がかかる。

いろんなことを心がけて文字を書く必要があるし、いろんな人に見てもらわないといけないというプレッシャーもかかる。記事は何文字くらいがいいとか、目次をつけろとか一貫したテーマで書けとか、いろいろ読んでいろいろと知っていった。

結果、自分にはそれらは染み込まなかった。

お金はほしい。それで新しいことができる。
もっといいものが作れるかもしれない。
知らない人とコラボレートするときとかにも、気負いしなくなるだろう。
美味しいご飯を食べて気分を上げたり、ガス代を気にせずにお風呂を沸かしたり、ああ、ドラム式洗濯機なんか買ったらもっと便利になるだろうな。
漫然と漠然とそう思っていた。



でも、それが今の自分の本当にやりたいことなのか?

セネカが今の自分を見たらどう思うだろう?

明日兵隊がこのワンルームに押し寄せてきて自害を命じられたら、後悔なく逝けるだろうか?

明日、散歩中にトラクターが突っ込んできたら?今日、空から巨大隕石が降ってきたら?自分は後悔せずにいられるのか?

そう考えた。答えは明快だった。

そして、この記事を書いている。




わたしは「ブログの収益化」への考えをいったん手放すことにした。
それが、自分らしく生きることに繋がると、今はそう思っている。



これまでやってきたことは、考えてきたことは、無駄ではなかった。
「自分なりに、哲学し続けよ。」
「それが人間らしい生き方ではないか。」

そう、過去の哲人たちが教えてくれた気がしたのだ。

そしてその考えは、何も他人事ではなく、自分の中にもわずかに灯っていたものだった。

雲が晴れる感覚と、同時に終わらない闇も見えた気がした。
武者震いのようなものが湧いてくる。

これがただ格好つけた文章だけで終わるかは、これからのわたしの生き方で決まる。


この興味と情念の灯火が尽きるまで、まず一度、
音楽を、文学を、創作を哲学し続けようと思う。

もっと多くの人に、もっと多くのものを。
今は、そう思う。

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この社会では、人と人との関わり、そして、お金がないと生きていけません。これからまた時が経ったとき自分がどうなるかはわからないのですが、今はこうして自分を奮い立たせることがいいような直感があり、そして、その方が心が踊るなという勘があるのです。
いつかこの記事を消す日が来るかもしれないけれど、それまではこの記事はここに残って、自分の行く先にある灯台のような役目を担ってくれることと思います。

自分はただの一人間ですが、ただ、創作への消えることのない情念と感謝を強く抱いていることは確かです。

ここまで散文を読んでいただき、ありがとうございます。

カイノオトをよろしくお願いします。

この記事を書いた人:kainooto